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「この世界は波でできている」

そんな言葉を、聞いたことがあるかもしれません。特にスピリチュアルな場面ではよく語られますが、実はこれは科学的にも確かな視点なのです。

量子力学の世界では、私たちが「モノ」と呼ぶ存在は、最初から物質としてそこにあるわけではありません。最初にあるのは、「確率波」と呼ばれるもの。これは、「そのモノがどこにあるか、どう動くか」は、確定しているのではなく、“起こりうる可能性”として漂っている、ということを意味します。

そしてある瞬間、その波が一点に収束するとき、それは初めて「粒子」として現れます。つまり、「存在する」とは、「可能性の波」が凝縮されて、現実のひとかけらとして立ち現れたということなのです。

たとえば、私たちが目にしているこの世界。色や形があるものを“見ている”という感覚は、実際には「光子(こうし)」と呼ばれる光の粒が目に届くことで生まれています。逆に言えば、「光子にならなかったもの」は、たとえそこに何かがあったとしても、私たちには見ることができません。

この宇宙には、真空ですらエネルギーが満ちています。何もないように見える空間にさえ、見えない何かが存在しているのです。つまり私たちが「見えている」と感じている世界は、もともとそこにあった無数の可能性のなかから、たまたま粒子として凝縮された一部にすぎません。

言いかえるなら、「今、目の前にある現実」は、確率と偶然の中からふと浮かび上がった、「選ばれたひとつの姿」とも言えるのです。

こうして考えると、「見える」という行為はただの情報処理ではなく、無限の可能性から世界を“立ち上げる”ことでもあるのかもしれません。私たちが触れられるもの、聞こえる音、感じられる温度……それらすべてが、目に見えるかたちで凝縮された、ひとつの現実。

それは、決して当たり前に「そこにあった」のではなく、私たちが今ここにいるからこそ、現れてくれた世界なのだと思うのです。

次回は、この「凝縮」というテーマを時間に移し、私たちが過去や未来をどうとらえているのか、そのあいまいさや確率性の中から、「今ここ」がどのように浮かび上がるのかを探っていきます。

第2回:時間の凝縮 ー開かれた過去と未来のなかで

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