第2回:時間の凝縮 ー開かれた過去と未来のなかで
「時間ってなんだろう?」
この問いをあらためて考えてみると、私たちが時間を語るとき、それはたいてい「出来事のつながり」として語られていることに気づきます。
たとえば、自分のこれまでの人生をふり返るとき、そこにあるのは「受験に失敗した」「転職した」「大切な人と出会った」など、いくつかの印象的なエピソードの集まり。それぞれの出来事は、ある「瞬間」に起きたこととして、すでに終わったもの、つまり「過去」として記憶されています。
このように「過去」は、私たちの中ではしばしば「確定したもの」として扱われます。一方で、「未来」はどうでしょうか。未来はまだ来ていない、だから何が起こるかわからない。「可能性」に満ちた、開かれた領域です。
でも、私はこう考えています。本当に「過去」は閉じていて、「未来」だけが開かれているのでしょうか?
たとえば、昔、怪我をしたことがあったとします。当時は「なんて不運なんだ」と感じたかもしれません。けれども、もしその怪我がきっかけで自分の身体を大切にするようになったなら、その出来事は「転機」だったと言えるかもしれません。逆に、もしその怪我によって夢を諦めざるを得なくなったのなら、それは「人生を狂わせた悲劇」になってしまうかもしれません。
同じ出来事でも、「今の自分」がどう意味づけるかによって、その過去はまったく違うものとして立ち現れてくるのです。
つまり、過去とは「固定された記録」ではなく、「今この瞬間の解釈によって、つねに形を変えるもの」でもあるのです。
人はみな、同じ事実を経験していても、それを語る言葉が異なります。記憶の違いは、単なる忘却や錯覚だけではなく、「今の自分」によって過去が更新されるという現象でもあります。
そう考えると、時間とは「直線的に流れていくもの」ではなく、むしろ今この瞬間に、過去も未来も一度きり凝縮されるようなものなのかもしれません。
「今、ここ」だけが確かで、そこを過ぎた瞬間に過去は少しずつ曖昧になり、未来はその都度、私たちの選択によって姿を変えていく。私たちが生きている「時間」とは、過去と未来の「開かれた不確かさ」の中で、唯一現実として定まっている「今」という点のことなのです。
次回は、「意味の凝縮」をテーマに、俳句や直感がどのようにして「今ここ」の深い世界を表現しているのかについて、考えていきたいと思います。
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