第4回:「今ここ」の必然性 ー肉体と意識を超えて存在する理由
ここまで3回にわたって、「今ここ」という瞬間を、物質的・時間的・意味的な凝縮点として見つめてきました。
最終回となる今回は、そこから一歩踏み込み、なぜ私たちは、この「凝縮された世界」を生きているのかという根源的な問いに向き合ってみたいと思います。
仮に、私たちの本質が「肉体」ではなく、「意識」や「エネルギー体」としての存在であるとすれば——本来の私たちは、もっと自由で軽やかで、物質的な制約にとらわれない、流動的な世界に属しているのかもしれません。
そのような高次の世界では、波長の合うもの同士が自然に引き寄せられ、調和の中で共鳴し合っていく。SNSやテクノロジーによって、価値観の近い人々が簡単につながれるようになった現代社会の流れにも、少し似ています。
しかし、この「地上の世界」ではどうでしょうか。
私たちは、思いがけない出会いや、価値観の違う他者、意見がぶつかる出来事に日々直面します。ときに傷つき、葛藤し、自分自身が揺さぶられる。けれども、そこにこそ大きな意味があるのではないでしょうか。
この世界に生まれてきた理由のひとつは、「自分と違うもの」に出会うためなのだと思います。
エネルギーの世界では、波長の異なる存在とは出会えません。けれど、この物質世界では、意見の違う人、思いがけない出来事、価値観のぶつかりが、当たり前のように起こります。
そしてその“違和感”こそが、自分という存在の輪郭を浮かび上がらせてくれるのです。
どんなに過去をふり返っても、未来を心配しても、それは自分の内側にある「想像」にすぎません。一方で「今ここ」は、自分では選べない現実として、身体とともに立ち上がっています。
そこには、唯一無二のリアルがあります。そして、最も深い学びもまた、そこにあるのです。
理解や気づきは、本来もっと直感的で、瞬間的なものです。回り道をして何かを「学ぶ」というよりも、いま目の前で起きていることに丁寧に触れることで、すでに何かが開かれていく。
だからこそ、「今ここ」に集中するという行為は、私たちが本質に立ち返るためのもっとも自然な姿勢なのだと思います。
これまで見てきたように、「今ここ」とは——
-
粒子として立ち現れることで可視化された
→ 物質的凝縮 -
開かれた過去と未来の中で一点に定まる
→ 時間的凝縮 -
言葉や直感を通じて一瞬で立ち上がる
→ 意味的凝縮
これらすべての凝縮が交差する、奇跡のような一点です。そしてその場所に、「意識的に立ち続ける」ことこそが、マインドフルネスなのかもしれません。「今ここに在る」という行為は、何かを得るためではなく、自分という存在をあらためて感じ取り、世界と深く関わるための最も本質的な選択なのです。
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