「直観」という量子コンピュータ—AI時代に必要な禅の思考法
AIが急速に進化し、私たちはこれまでにないスピードで情報に触れ、知識を得ることができるようになりました。検索すれば即座に答えが出てきて、ビッグデータを使えば未来の傾向さえ予測できます。
でも、そんな便利な時代だからこそ、私はふと立ち止まって考えたくなるのです。「その情報は、本当に私にとって大事なものだろうか?」
AIはたしかに優秀です。でも、「何を選ぶべきか」や「どう生きるか」といった根本的な問いに対して、最終的に判断を下すのは、やっぱり私たち自身だと思うのです。
そのとき、頼りになるのが「直観」と呼ばれる、もうひとつの思考回路です。直観とは、熟知している分野や経験の中で、推論や分析といった論理を挟まず、ある瞬間に「これだ」とわかるような即時的な理解のこと。
英語では intuition と訳され、判断力や洞察力とも似ていますが、それよりももっと直接的な知のはたらきです。たとえば、プレゼン資料をつくっているとき、「この構成では伝わらないな」と直感的に感じて方向転換したり、商談相手のちょっとした表情や声のトーンから「この提案は刺さっていないかもしれない」と感じたり。あるいは、過去のデータではうまくいっていても、「このタイミングではやめておいた方がいい」と判断する——そんな場面は、ビジネスの現場でも少なくありません。
実はこの「直観」という言葉、日本語では仏教の「般若(プラジュニャー)」という智慧に由来しており、「直観智」とも呼ばれてきました。これは、物事を分析して理解する“分別の知”ではなく、言葉を超えて本質をつかむ“無分別の知”とも言われています。
今回は、そんな“直観”という感覚について、私自身の学びや実践を通して見えてきたことを綴ってみたいと思います。禅やマインドフルネスに触れる中で気づいた、「もうひとつの思考回路=直観」をめぐる小さな探究です。
大学院で修士論文を書く中で、西田幾多郎の哲学や生物学、量子力学の文献を読む機会がありました。そのなかでとくに印象的だったのが、イギリスの物理学者ロジャー・ペンローズの説です。
彼は、「人間の脳のはたらきには、量子力学的なプロセスが関与している可能性がある」と述べています。
それが本当なら、私たちの脳はロジックで動くAIとはまったく異なる、並列的で非線形な処理ができる「もうひとつのコンピュータ」を内に持っていることになります。
そして、この「脳の量子的な力」を私たちは普段、「直観」として感じ取っているのかもしれません。
複雑な状況に直面したとき、すべてを分析してから決めるのではなく、ある瞬間にふっと「これだ」とわかることってありませんか。
私自身、瞑想やヨガを通して、そうした感覚に助けられる場面が増えてきました。言葉にならないけれど確かな手応えがある。あとから考えると、それが一番よい選択だったと気づく。そんな経験をする頻度が少しずつ上がってきている気がします。
この「ひらめき」は、過去の経験や五感の記憶、身体感覚など、意識にのぼらない無数の情報が、静かに、でも確実に統合されて出てきた結果なのだと思います。
AIは計算に強く、情報の整理も人間は足元にも及ばない速さです。しかし、人間の直観には、AIでは届かない「文脈」や「感性」がたしかに宿っている気がします。
とはいえ、直観はいつも使えるわけではありません。むしろ、日常のなかでかき消されてしまいがちです。
次々に届く通知、締め切り、判断を迫るタスク。そんな日々の「ノイズ」が多すぎると、自分の中にあるはずの静かな声が聞こえなくなってしまいます。
禅の思想に触れるなかで、私がとても共感したのは、「思考を止めよう」とするのではなく、「余計なものに巻き込まれない心」を育てるという姿勢です。
禅の座禅も、マインドフルネスの瞑想も、「無」になることが目的ではありません。むしろ、心の内側を静かに観察しながら、必要のない情報をそっと手放していくようなプロセスです。
それは、直観がちゃんと働くための「環境づくり」だと感じます。
私が日々取り組んでいるマインドフルネスの実践も、直観を養うためにとても役立っています。
呼吸に意識を向け、いまこの瞬間の感覚に丁寧に触れていく。その中で、思考のスピードがゆるみ、心に余白が生まれてくる。そしてその余白のなかに、ふとした気づきや感覚が現れることがあります。
これは禅とも深く重なる体験です。
禅は仏教の実践のひとつとして歴史的背景を持っていますが、マインドフルネスは宗教色を取り除き、より広く現代に根づいてきた実践です。
背景や形式が違っていても、「自分の内側にある静かな声に気づく」という目的の根っこは共通しているように思います。
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